Moanri’s blog

God only knows what I'd be without you.

アンティークショップ

普遍的なものは、場所も人も選ばない。

必要があるものは、自然と現れ、

必要とされなけれ、消えていく。

だから、自然と必要とされるものを作り出さないといけない。

己の内から。

そうやって社会も造られてきた。社会が我々を作ったのではない。

 

***

今住んでいる家の目と鼻の先。リナック(рынок)と呼ばれる、屋内型の市場に足を運んだ。

目当ては、チェブラシカのグッツだったのだが、生憎チェブラシカを売っているような店はここにはなく、食料品とシンプルな日用品の店が軒を連ねているだけだった。

 

この数日、ずっとワニのゲーナが演奏する哀愁的な名曲(謎曲)である、ガルボイバゴン(горубой вагон)を、ヘビロテしていた。走り行く列車と移り変わる情景、それらを過ぎ行く日々と移り行く人々の思いを対比して歌ったゲーナの曲の中でも一二を争うマスターピースである。

この曲を繰り返し聴いていたら、自然と体がチェブラシュカを探していた。

誰かに懇願されたとかそういうわけでもないが、やらねばという気持ちが湧いていた。

読書とか、運動とか、そういう類の衝動で、チェブラシュカグッツを探している。

www.youtube.com

 

市場を探し回り、結局行き着いた先は、骨董店。

日本でも、アメリカでも、骨董店に足を踏み入れることは稀だが、

好奇心が背中を押した。

 

中には、古い絵画やイコンの基督画が所狭しと並べられていた。

チェブラシュカの人形は残念ながら、なかった。

数ある骨董品の中で、僕の目を引いたのは3体の量産品の白いレーニンの頭像である。

そのレーニンたちは、言わずと知れた険しい顔で斜め45度に整然と向いていた。

その様子のシュールに居座るレーニンの頭たちは、漫然と流れていった過去を想起させる。留まることが出来なった形骸、鉄道のレールである。

 

後ろを振り向くと店主らしきおじいさんが、私の背中で這っているアリでも観察するような、そんな目つきで見てくる。不自然な空気に、店に留まることの出来なかった僕は「スパーシーバ」と言って、足早に店を後にした。去り際のおじいさんの「パージャールスタ(どうも)」が優しい声だったような気がした。あのおじいさんも、実はゲーナの友達なのかもしれない。